徒情






つやつやと光る葉を見て夏だな。と柳が独り言のように呟いた。は頷いて彼を見上げた。まだ湿気を含んだ風に揺られる綺麗な焦げ茶の髪がたくさんの光に照らされていて自然と目が細まった。



「そういえば、前に蓮二が貸してくれた本、読んだよ」
「ああ、どうだった?」
「面白かったし、読みやすかった。最後の話が好きだったな」


自分が読んだ本を薦めることをなかなかしない柳が珍しく薦めるので、よっぽどいい話なんだろうと思いは本を読み進めた。柳が貸した本は少し古めの時間をテーマにした短編集だったので、通学中や就寝前の少しの時間でも読み進めることが出来た。 いい話、という訳ではなかったが、柳が伝えたいことがには何となく分かった気がした。でもそれを口にはしなかった。彼はそれを望まないだろうと思ったし、もそれを口にするのは嫌だった。言える空気でもなかった。


「今日忘れたから、日曜日の朝に返しに行ってもいいかな」
「日曜の朝は忙しいだろう」
「ううん。行くよ」


が強く言うものだから柳も落ち着いた声で承諾した。は忘れたのではなく、わざと持ってこなかった。日曜の朝にどうしても柳に会いたかったからだ。家も近く、幼馴染という関係なのでいつでも返すことはできたがはどうしても日曜日の朝に会いたかった。 柳もと同様、日曜の朝に会いたいのは同じだったが、その時どのようにすれば良いのか何度考えても分からなかった。平然を装える自信はなかった。気持ちを素直に言葉に出来る自信もなかった。
沈黙が二人から纏わりついて離れない。沈黙を共有できる仲の二人だったが、今は妙に居心地が悪くてお互い言葉を捜した。


「もう、あれからもう一年か。早いな」


沈黙を破ったのは柳だった。一年前。柳は思い出していた。今日と同じような学校帰り、一年後に引っ越すのだと落ち着いた様子で自分に話すの姿を。
理由は親の離婚だった。泣きもせず、無表情で淡々と話すものだから、柳は慰める事も深く理由を聞く事も出来ず、「そうか、寂しくなるな」とだけ返した。あまりにもが落ち着いていたから動揺を晒す事は出来なかった。そうするしかなかった。動揺すれば、彼女だってきっと平然を装ってられなくなるだろうとその時は思った。 なのに今になって、あの時にもっと話を聞いてやっていれば何か少しは変わったかもしれないと後悔ばかりが柳を責めたてる。


「うん」
「戻りたいか?」
「どうだろう。過去に縋るのは好きじゃないな」
「俺もだ」
「それでもやっぱり寂しいよ」


二人とも柄にも無く、戻りたいと思っていた。
一年前のは引っ越すという実感は全く無く、まだ一年もある。と思っていた。それでも月日がたつの早いもので最後の一年を特に之といった思い出を作ることも無く平凡に一年をあっさり過ごしてしまった。 その間柳は柄にも無く現実を受け止められないでいた。常に目の届くところに居た幼馴染が自分と離れたところに行ってしまう。今まで考えもしなかった現実がずしりと柳に圧し掛かった。 しかし彼女は一度その話をしてから、柳にその話を振る事は無かった。あまりにもいつものように振舞うので、あれは嘘だったんじゃないかと思える程だった。 それでも最近なって、思い出を辿るように懐かしい話ばかりするをみて、あと少しで居なくなる事を再び実感することになった。


互いに気持ちを理解していた。柳はの事を好いていたし、も柳のことを好いていた。言葉にしたことはないが、お互い確信していた。 それでも一年という期間が二人を縛っていた。残された一年を幼馴染という関係で待つしかなかった。


「そうか」
「うん。蓮二とはずっと一緒に居たから」
「そうだな。寂しくなる」


は通いなれた通学路を初めて来た土地を歩くかのようにじっくり観察しながら歩いた。明後日、いつも隣に伸びていた大きな影はもう見えなくなってしまう。 後悔ばかりがを占領していた。親に自分の意見を言っていれば、柳に自分の気持ちを伝えていれば。 その時はそれが最善だと思って行ってきた行動だったのに、結局後悔ばかりを置いて去らなければいけない。あの日あんなに落ち着いていただったが、今は泣いてしまいそうだった。


「やだな、次ここに来たら懐かしいって思うの」



最良の言葉を必死に探したが、泣きそうなを見ると、柳はあの時と同じように何も言えなくなってしまった。今までだっての泣き顔なんて幾度と無く見てきた。いつもそれを慰めるのが柳の役目だった。 柳はその役目が嫌いではなかった。よく彼女を理解している自分だから出来る事だと思っていた。 それなのに今は慰めの言葉一つもかけられない。柳は自分の不甲斐無さに愕然とした。


「蓮二」
「・・・」


引き止めたかった。行くな、と言ってしまいたかった。でもそんな事言ったからといって、現実は何も変わらない。 は明後日俺の前から消える。どう足掻いても変えられない事実だった。今さら気持ちを伝えたところでは辛くなるだけだ。俺だって。現実を受け止めるしかない。今更実感したところで俺がに出来る事なんてもう何も無かった。


「・・・何か言ってよ」
「・・・ああ」


蓮二はそれから何も言わなかった。私が目線を向けようと、蓮二はもう私の顔をみない。
怖かった。私の記憶の中から今までの全てが薄れて行ってしまう。 こんなに今まで当たり前だったことが当たり前じゃなくなってしまう。 それを普通と捉えて違和感無く忘れていってしまいそうな自分が怖かった。
それでも、大好きだった幼馴染の今まで見た事のない横顔を、私は生涯忘れないだろうと思った。





(2010/7/16)


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