あたしは寺の住職の娘だ。 生まれた時から物静かな環境に身を置き、時折鳴り響く鐘の音を聞きながらただただ何をする訳でもなく育ってしまった。何もかもがレールの上に沿った歩み方であたしに自由や選択という魅力的な言葉は見当たらない。親が決めた仏教を信仰する学校に幼稚舎から通い、他の宗教を信仰する人間とのかかわりを持たないそんな生活。必然的にあたしの周りには同じ境遇の人間しかいなかった。仏教を信仰する両親と、見た目は他の人と変わらなくとも体中に仏教という縛りのある友人と、そんなあたし達に授業を教える仏教を信仰している教師と、制限されたあたしの人生だった。 幼いころは何も思わなかった。それが当然の環境で育ったのだからそれも当然の事だろう。あたしにとって仏教とはそこにある当然のものであり、また無に近いものだった。 しかし中学に進級した頃から小さな疑問と不満が募っていった。何もかもを規制された人生、自分で道を切り開く事の出来ないレールの上を沿う事しか出来ないお決まりな人生を歩む事に不満を感じ始めた。だがしかし不満を感じようがあたしに自分で道を切り開く事は出来なかった。 別にキリスト教やその他の仏教以外の宗教に心が惹かれた訳ではなく、ただ単に縛られる生活に嫌気がさしただけだった。決まり切った質素な食事に、制限される人間づきあいに、仏教を心の底から信仰しなくてはいけない見えない圧迫に、あたしはついに心の制御がきかなくなってしまった。自ら覚えなくとも毎日呪文や子守唄のように耳に響いてくるお経が染みついて離れない生活に終止符を告げたいと思った。 周りの同世代が街中で遊んでいるという誘惑の中あたしは寺の掃除をしたり境内の草を毟ったりまるで別世界のような境遇の中を流されるままに生きていた。 これは欲張りというのだろうか、自分はただの我がままなのだろうか、そう自問することであたしはずっと自分に言い聞かす様にしていた。他の子と同じように遊べないのも、自分の好きな学校に行けないのも、それは全て運命であるのだと。何かと運命という言葉に託けて色んな事を我慢してきた。 中学の半ばを過ぎた頃あたしはずっと心の内に溜めていた不満に耐えられなくなった。 無駄とは知りつつも言ってみたあたしの本心にやはり親の答えは想像に容易いものだった。あたしが仏教の世界から離れる事に両親が納得するはずもないというのは分かっていた。それでも諦めきれなかった。そう、言われる事で仏教に対しての明らかな憎悪があたしの中で生まれる事になった。 あたしは両親の反対を押し切り、金銭的負担をかけないという約束で立海大付属高校の推薦枠を取る事になった。 幼いころから境内の草むしりや廊下の拭き掃除を永遠としていたせいか体力だけは人一倍あった。運がいい事に人並み以上の運動神経もあった。あたしは唯一仏教から離れられる部活という貴重な時間の中でテニスというスポーツを得意としていた。それがあたしを推薦枠を取れた一番の理由だった。皮肉な事にもこの家の娘に生まれたという事が幸いしてついた体力という面であたしはこの世界と見切りをつける事が出来たのだった。 翌年、あたしは立海大付属高校に入学を果たした。寮生活がスタートしていた。 高校二年生になったあたしは平凡な日常に身を興じていた。寺で生活していた頃より自由は増えたが、それでもあたしの中での何かが付いて回って完全な自由を与えてはくれなかった。あたしはただ単に流れていく平凡な時の流れに以前の生活と同じようなものを感じていた。思っていた以上の自由は、ここにはなかった。 毎日日が暮れるまでテニスをして、放課後に友人とファーストフード店に寄ったりウィンドウショッピングをしたり以前憧れていた寄り道を稀にして、自分が望んでいた生活に溶け込んでいた。それでも何かが足りない気がしていた。 「お前さんはいっつも不満そうじゃな」 「そう?きっとそうでもないよ」 声をかけてきたのは仁王雅治という男子テニス部の男だった。仏教とは何の関わりもない友人だ。あたしが望んだ関係だった。しかしやはり何処か心が完全に満たされる事はなかった。 「のテニスには遊び心がないぜよ」 的確に意をつかれた言葉にあたしは思わず苦笑してしまった。それが本当の事に違いないから。 「テニスはあたしにとって手段でしかないから。好きでやってる訳じゃない。仁王とは違うよ」 テニスが嫌いな訳ではなかった、しかし特別好きという訳でもなかった。テニスの推薦枠で立海に入学した人間だからこそ余計にそのことに疑問を抱かれるのは当然の事だろう。事実この男はそれを理解しているのだから。 テニスをしていれば本来在るべき場所に戻らなくて済む。テニスをしていなければ本来在るべき場所に戻らなくてはならない。理由はそんな単純すぎるものでしかなかった。 「テニスが好きでテニスをしている仁王とは違うんだと思う」 「テニス、嫌いなんか?」 「ううん。別に嫌いじゃないよ。ただ好きという訳でもない」 あたしがそう言っても彼は眉の位置を変える事すらせずに綺麗なその面持ちを保っていた。きっとその面持ちの裏側ではあたしの事を軽蔑しているのだろう。テニスが好きでも立海に入学出来ない人間などきっと五万といる。その中から優遇されたあたしがこんなに無気力でテニスに対する愛がないなどとはきっとテニスをしている人間からすれば軽蔑に値することなのだろう。 しかし彼は思ってもみない言葉を口にしてあたしを驚かせた。 「やっぱりのう」 普通の人間ならここでこんな言葉を口にはしないだろう。あたしには何故彼がこんな言葉をあえて選んだのかという理由がにわかに理解しがたかった。テニスを好んでしている彼から出るとは思えない、そんな言葉だった。 「軽蔑しないの?」 「別に」 「普通ここは軽蔑するとこだと思う。普通じゃないあたしが言うのもどうかと思うけど」 「俺も普通じゃないっちゅう事なんじゃろ、つまりは」 あたしは思わず頷いてしまった。彼が普通じゃないという事だけはなんとなく理解してしまったから。特別仲がいい訳でもなかったけれど、それでも彼の存在はクラスの中でもひと際目立って異形なものだった。 「が普通じゃない事は見れば分かるじゃろ」 「同じ匂いがしたんじゃ」 「俺もテニスが好きな訳じゃないぜよ。嫌いでもないがの」 あたしは初めて同じ匂いのする人間と出会った。 あの日以来あたしは仁王と一緒にいる事が多くなった。単純に心地がよかったからだ。一緒にいて気飾ずにいられる唯一の存在こそが彼だった。あたしの中に根強くあったテニスを好きにならなくてはいけないという厄介な感情はいつしか彼といる事で薄まりつつあった。あたしの自由への初歩をずっと阻み続けていたものがようやく道を開いてくれているような気がした。 彼と一緒にいると心地がいい、それは自覚できる感情に違いない。しかしそれが恋という眩い感情には繋がらなかった。彼とは一緒に居て居心地がいい、ただそれだけであたしは満足だったのだ。 「」 あたしは「何?」と返事をする。 すると彼はやはり表情を何一つ変える事もなくそっと部活終わりの誰もいない体育館であたしに唇を合わせる。あたしもそれに対して拒む訳でもなく、受け入れる訳でもなく、やはり得意の流されるままに身を任すだけだった。 「神聖な場所でこういう事をするのはどうなの」 「学校が神聖なんて初耳じゃけどな」 「神聖かどうかは別としても、あたし達は付き合ってる訳じゃない」 そう言うと彼はやっぱりそのままの表情で言葉を紡ごうとする。彼は案外物わかりの悪い人間なのかもしれない。あたしはそう思うようになっていた。結局あたしは彼に言い分を言う事は出来ても彼に勝つことはできない。いつだって言いくるめられてペースを握られるのはあたしだ。それでもやはり感じる居心地の良さは変わらない。 「それに付き合いは必要なんか?」 いつものようにあたしは何も言えなくなる。そう聞かれたらあたしに返す言葉は所詮ないのだ。どうあがいても彼には勝てない。 「仁王には何言っても無駄なんだね」 「こういう時くらい名前で呼びんしゃい」 「面倒でしょ」 「つれない態度じゃな」 そう言いながらも彼は少し靡いた髪に触れると啄ばむようなキスを齎した。元より口数の少ないあたし達は、この行為によって余計に無知なその口を黙らせるのだった。そんな、穏やかな日常が流れていく。 とある日常の一日、あたしは久しぶりに実家に帰っていた。 帰るのは実に一年ぶりだった。毎年必ずこの時期になるとあたしは実家に帰る。親戚一同で大きな行事があるからである。久しぶりに触れる物静かな空間は線香の香りで充満していた。いつだってあたしが浴びていた、少し前までのあたし自身の香りだった。 その香りを懐かしく感じる一方で、縛られていた悪夢のような日々に引き戻されるような嫌悪感を感じた。 行事が終わるとあたしは両親の食事の誘いに目もくれず一目散に実家を後にした。これ以上ここに居ては再びこの場に引き戻されるようなそんな気がしてならなかったから。あたしの居場所はここではなく、自由で満ち溢れた外の世界であるのだと確信を持ちたかった。あたしはもう仏教からは遠く離れた人間であるのだと。 今まで然程使う事のなかった番号を開き、あたしはダイアルを押した。自分と似ている仁王雅治という男に。 あたしの仏教以外への逃げ道は最早テニスではなく、彼になっていた。彼と一緒にいることで自分は仏教とは無縁で、普通の高校生であるのだと、あっていいのだと感じる事が出来るのではないだろうかと思っていた。 電話をすると相変わらずなテンションな彼の声が聞こえてきてあたしはほっとした。 寺を離れ早数年、これだけ経てば変わると思っていた。遠い記憶のものになるんじゃないかと思っていた。しかしそれは違うのだとあたしは思い知らされた。あの物静かな空間も、線香の香りも、忘れる事は出来なかった。きっと心のどこかで願っていた。耳にタコが出来る程聞いたお経も時が経てば忘れる事が出来るのではないだろうかと。しかし無情にも流れてくるお経は自分の脳内で綺麗に重なって聞こえてきた。 「から電話してくるなんて珍しい事もあるんじゃな」 「迷惑?おかしい?」 「まさか」 「よかった」 無意識のうちの自分が彼を欲していたのだと痛感させられた。それでも頑固なあたしはそれを完全には認められない。過去との決別の理由に彼を使おうとしているのだと、そう言い聞かせた。彼に異性としての感情があるのではないと。 一番嫌いな香りで包まれて気分が悪い。忘れたくとも線香の香りを帯びた自分がそうはさせてくてない。 「雅治。一つ、お願いがあるんだけど」 言い慣れない彼の名前を呼んだあたしの唇はきっと震えていたと思う。 「キス、して欲しい」 言い慣れない言葉に、あたしは顔を上げる事が出来ない。それでもその言葉を取り消す言動はしなかった。 「気分屋じゃのう」 「だめ?」 「いんや」 あたしは少し背伸びをして彼の大きな肩に手を当てて何かを待つようにせがんでいた。すぐには反応はなかったが、まだかと目を開けるとすぐにあたしの視界は暗闇へと誘われていった。 初めてではないその感触と温もりに、何故か胸が震えた。悪い事をしているような妙に高鳴る心音が余計とそんな感情を加速させていった。あたしはついに彼を直接的に欲してしまったのだ。いつだって受け身で流されるままだった自分がこの時ばかりは目を疑うばかりに積極性に満ちていた。 薄明かりの公園の少し先に目に悪い色をした光を見た。追うようにして彼もその光を見た。 あたし達は迷うことなく、自然とその光の先に誘われていった。今まで決して越える事のなかった間柄を取り壊してしまうような、大人の色をしたネオンが輝く夜の街に。誘われてしまった。 紫色に怪しく光るホテルの一室に入ってどちらからともなく体を寄せ合うと彼はあたしが一番望まない言葉を漏らした。 「・・・ええ香りがする」 あたしの衣服から漂う線香の香りに彼はこんな言葉を放った。 「やめてよ」 流れるように生きてきたあたしにとって何かを否定するということはあまりなかったが、こればかりはムキになったように否定してしまった。まるでそれが自分の香りであると言われているようでどうしようもない不安が押し寄せた。あたしはもう、違うのだと。 「俺は好きじゃけどな」 「あたしは嫌い」 言っても彼は穏やかな表情のままに、僅かに笑った。 「の匂いがする」 あたしは恥じらいという言葉を忘れたかのように、自らの衣服を脱ぎ棄てて生まれたままの姿で彼の前に立ちはだかった。過去の自分の香りを脱ぎ捨てるように、酷く荒々しく。 素肌を晒す恥じらいよりも自分が過去に引き戻される事の方がよほどあたしにとって怖いことだった。 衣服を脱ぎ捨てても尚、うっすらとあたしの体からは懐かしい香りが漂っていた。 彼との関係が明らかに友情と言えなくなる、そんな事をあたし達はしてしまった。しかしだからと言ってあたし達の関係に然程の変化はなかった。ただ一度何かがあっただけでそれがきっかけに何かが変わる訳ではなく、あたし達の日常は淡々と時を過ごしていく。 「寒いね」 季節の変わり目というものを感じられず突然に秋はやってきて、気が付けば冬も半ばに差し掛かっていた。 「そうじゃな」 何を催促するでもなく、されるでもなく、あたし達はそっと暖を取るために手を繋いで道を歩いて行く。何も変わらない関係。友達とも呼べない、恋人とも呼べない、曖昧な関係のまま。これが俗に言う友達以上恋人未満という関係なのだろうかとも考えたがそれもどうにもしっくりこなかった。あたし達の関係は表現するには酷く複雑なものだった。 最近は部活が終わるころにはオレンジ色の光りすらなく、ほんのりと闇がかった空があった。あたし達は通りがかったファーストフード店の堅い椅子に腰かけ、コーヒーをすすり始めた。 「仁王は年越しっていつも何をして過ごす?」 ふとした疑問に彼は珍しく不思議そうな面持ちでコーヒーを飲みほした。 「普通じゃ。そば食ってテレビ見るくらいかの」 彼の言う普通にあたしは少し昔のことを思い出していた。あたしにとっての普通の年越しは彼が言う普通とはやはり違っているのだと。あたしにとっての年越しとは準備に忙しく働く両親の姿しかなかった。慌ただしく動く両親に、ある程度の歳になるとあたしも加わって働いた。テレビを見ながら年越しそばを食べる一般家庭では極々普通の光景をあたしは一度も目にしたことがなかった。 「楽しそう」 「そうか?俺はあんまり好かんがの」 「ちょっと嫉妬した」 「何にじゃ」 「楽しいお正月を過ごしてきた仁王に」 「理不尽じゃな」 あたしも冷めたコーヒーを一気に飲み干して、しらじらしい溜息を一度大きく吐き出した。すると彼は何故かくすくすと笑ってあたしを見ていた。きっと可笑しな事を言ったあたしに対して笑っているのだろう。自分でも可笑しな事を言っていたという自覚はあったから何も反論はしない。 「そういう年越しすればいいぜよ」 「そんな簡単に言わないでよね」 あたかも拗ねたようにしているあたしを見て彼はやっぱり笑いを零す。 思えば彼に自分の家の事情を話した事がなかったのはあたしは思い出した。きっとあたしの言動を不思議に思った事だろう。あたしは一度、彼に事情を話そうと口を開いたがやはり思いとどまって紙コップの奥底にへばりついた液体を啜るようにして口を閉ざした。 「帰ろう」 少し嫌な過去を思い出していた。 あたし達はちょっとした約束事をした。年越しの三十一日、一緒に年を越すという小さな約束を。きっと彼にとってはひとつの 高校生は短い冬休みを迎えていた。部活に明け暮れるあたし達にも何もしない、休息と呼ばれる日がやってきていた。 「まるで子どもじゃな」 彼は言う。最近あたしは変わったと。 まるで日々を無気力に過ごしていたあたしに一つの光が差し込んだように生き生きとしていると。万年無表情と呼ばれた女は少しだけ、年相応な女のように表情を輝かせていた。彼との小さくて、大きな約束があたしの胸をこがしていた。 「あたしは“普通”に憧れてるから、なのかな」 何度“普通”という言葉に憧れただろうか。普通な生活、普通な女子高生、普通な遊び、普通な性格、何もかもが普通で、ありふれた人間と同じそんなものをあたしはずっと望んできた。今更自分が完全な“普通”になれるなどとは思っていない。そこまで夢を見ることの出来る歳でもなければ性格でもない。 でもそんな“普通”に少しだけ近づけるような気がしていたのだ。彼の言う普通な年越しを経験することであたしも“普通”に足を踏み入れる事が出来るんじゃないだろうかと。 あたしは喜びに胸を踊らしていたが、仁王は少しだけ寂しそうに笑っていた。 「普通がそげにいいのじゃろうか」 「いいよ。奇特だとは思うけどそれがあたしの望みだから」 「そうか」 普通という言葉が当てはまらない世界に身を興じていたあたしにはそれが全てだった。全ての望みの極みのようなものだ。きっとあたしと似ている彼ならそんなあたしの心の内を理解してくれるのだと、そう思っていた。 しかし彼はやはり表情を変えず、ただ癖のある苦い笑いを洩らすだけだった。 「俺はのそういう所、好いとうんじゃけどなあ」 この先の楽しみに胸を詰まらせているあたしに彼のこんな言葉は通じていなかった。普段は感じ取ることの出来る違和感すら感じる事も出来ず、あたしは「ふーん」とだけ言葉を紡いだ。 引っかかる表情をした彼と年越しの約束を再度して、別れたのが二十七日の夕方の事だった。 十二月三十一日、 あたしは柄にもなく早起きをした。こんなに朝早く起きたのは寺に住んでいた頃ぶりなのかもしれない。少なくとも午前零時までは起きていなくてはいけないと知りつつも興奮を抑えきれない体が言う事を聞かず、まだ薄明かりな空の元目を覚ます。 早く時間が過ぎる事ばかりを願い、時折部屋の掃除をしながら夜が来るのを待っていた。あたしは実家に帰ったあの日以来、初めてになるダイアルを彼に向けて発信した。 しかし彼は出なかった。その後何度かかけ続けたが彼の声があたしの耳に響く事はなく、数十分後に簡素なメールが届いた。 メールの上に表示されていた時間は丁度十時三十分だとしっかりと記憶していた。 時刻は十一時を示す。彼が家を出た時間を考えてももう到着していておかしくない時間だった。しかしこれ以上彼を急かすのも得策ではないと思ったあたしはそのメールを開いてただ彼の到着を待っていた。彼との信頼関係に催促は必要ないと、そう思っていたからだ。 しかし彼は来なかった。午前零時を過ぎても、一時を過ぎても、あたしが眠気と格闘しながら朝を迎えても。 結局彼と会えたのは一月一日、実家の寺だった。 そのまた数日後である今、あたしはやはり実家にいた。あれ程嫌だと言っていた、自分の在るべき場所で、在るべき衣装を施し、静かに彼の顔を見ていた。一緒に年を越せなかった 不思議と涙は出てこなかった。もうそれがお決まりだったからなのかもしれない。あたしにとって、死人を見ることなど然程な苦痛でもなければ、ただの慣れっこだった。 仁王雅治が死んだ。 あたしがそれを知ったのは彼と会う予定だった翌日の事だった。交通事故で即死だったと後から聞いた。その割には綺麗なままな彼の顔は恐ろしい程に生きていた時の彼と同じようだった。元々精気があまり感じられない彼だったからそう見えるのかもしれない。あたしは彼の屍を見ても何の感情もなく、生きている彼を見ているように法事の服に身を包んで寺の娘として彼の傍でじっとしていた。 彼の顔にのっていた布をあたしは再びかけなおす。即死と聞いて出てきた感想は可哀想や悲しいなどという“普通”な感情とは程遠く、せめてもの救いだったのだろうというものだった。中途半端に生き残ってもがき苦しむ彼など見るに絶えないし、そもそも彼らしくないから。 棺に入って言葉を紡がない彼にあたしは小さい言葉を紡ぐ。 「今年の年越しもあたしは“普通”にはなれなかったね」 仁王のせいで。と。皮肉っても彼はもう何も言わなかった。皮肉を皮肉で返す彼の言葉はもう聞けなかった。 彼は言った。普通じゃないあたしが好きだと。結局あたしは寺の娘であって普通の女の子にはなれなかったのだろうなと悟った。まるで彼がそれを阻止するように、気づかせるために死んでいったのではないだろうかとも思った。 聞きなれたお経と物静かな空間にあたし達を支配している。皮肉にも、少しだけ心が落ち着いた。 彼の屍の傍からは彼が以前好きだと言った線香の香りが漂っている。あたしは彼から自分の香りがしているようで、やはり心を落ちつかせた。あれ程嫌いだった線香の香りも、耳障りなお経も、独特な雰囲気も、彼のおかげで少しだけ嫌がる何かが飛んで行ったような気がした。 仏教に囚われていたあたしを救ってくれたのは彼だった。 テニスに囚われていたあたしを救ってくれたのは彼だった。 結局あたしは、彼に囚われていた。 彼の遺品の中には、去年のおみくじがあったという。あたしと一緒に今年結ぶ筈であったものだ。本来棺と一緒に燃やされる筈のそのおみくじをあたしはそっと気づかれないように取り出してポケットの中に忍ばせた。 仏教に囚われ、テニスに囚われ、全ての自由を拘束されていたとばかり思っていたあたしの思念は、結局のところただの思いこみだったのかもしれない。彼がそう言っているような気がした。 彼から香ってくる線香の香りがあまりにも心地がよくて、ようやくあたしの涙腺を緩ませた。 きっと彼に恋をしていたあたしは、誰よりも普通の女の子だったのかもしれない。 |