あたしは彼にとってただの都合のいい女だったのかもしれない。たまにキスをされたり、望まれればそのままにセックスをしたり、彼にとってあたしは彼女というよりも単なる道具や何かのコマの一つに過ぎないのではないだろうか。あたしはずっとそんな疑念を、仁王と付き合って二年経っても払拭できないでいた。 大学に入ると仁王はすぐに煙草を吸い始めた。 あたしに気をつかっているのか、なるべく煙草の煙をこちらに流さないようにそっと背を向けながら、でも吸う事を止めようとはしない仁王だった。そんな些細な行為でもあたしの心は仁王の偽善の優しさに揺れ動いた。 きっと見た目以上にあたしは彼の事が好きだ。冷めてるなんてよく言われるけどあたしは仁王が本当に好きだった。だから例え体目当てな関係であったとしても構わなかった。自分を求められている事には違いないから。そもそも体の関係だけで二年も付き合う為には少なからずそこに愛がなければ難しい事なんて少しあたしは自惚れてもいた。 「雅治、今日うちに来る?別に何があるっていう訳でもないんだけどさ」 「茶が出るんじゃったら考えてもいいぜよ」 「いや普通にお茶くらい出すよ。雅治うちに来た事そういえばないと思って」 「そういえばいっつもラブホで金ばっかり嵩んどったな」 「・・・そういう事じゃないんだけど。まあ別にいいんだけどね」 高校卒業を目前にしてあたしは初めて仁王を自分の家に招く事にした。まともに年相応なデートでもしてみようかなと思ったのがきっかけだった。 あたしと仁王のデートと言えばもっぱらセックスするかもしくは喫茶店でぼんやりしているかのどちらかだった。不健全極まりないやはり高校生の恋人同士とは思えない、そんなデートばかりだった。 だからあたしは普通の事がしたかった。家でなんとなくお茶して話して時にいい雰囲気になって雰囲気のあるセックスに人の気配を感じながらももっと心音を高鳴らせたり。こう言えばやっぱり不健全な方へと話が繋がっていってしまうけれど、あたしはそんな些細な違いでもよかった。そしてそれに仁王も悦んでくれれば最高であると。 「あら。帰ってたの?」 「お姉ちゃんこそ早いね」 「今日は早い講義だけだったから。それとも居ない方がいい?」 「ううん。別に」 誰もいないリビングであたしと仁王は早速いちゃつき始めた。お茶をすする暇もなく、両親が共働きなのをいいことに仁王が自重することもなければあたしもそれを止めようとはしなかった。 ちょうど濃厚なキスにさしかかった時、ガチャリと家の戸があいてあたしと仁王は素早くお互いの体を離した。 大学生の姉が、不思議そうにあたしの乱れた服装と落ちつき放った言葉づかいのギャップに呆けていた。 「どうぞ。何の変哲もない家だけどゆっくりしていってね」 仁王は小さく頭を下げて姉を見た。なんとなく嫌な予感はしていた。あたしとは正反対な姉が脅威になるのではないだろうかと、この時少しだけそんな事をあたしは思ったのだ。 姉は食卓に置いてあった灰皿に白いフィルターの煙草に火をつけ、煙を燻らせた。 あたしと違って姉は酷く自由奔放な人間だった。あたしが“静”なら姉は“動”という表現が一番正しいだろう。 小さいころから正反対なあたし達はよく本当の姉妹なのかと聞かれたものだ。あたしと違って自分のはっきりとした意思を持っていて、なおかつそれを自らの口で言える姉はあたしが本来受け継ぐ分を使い切ってしまったのではないだろうかと思う程にはっきりした性格だ。 あたしは色々と感情的な何かが欠乏している人間だと思う。欠陥人間。欲というものがあまりなければ、それを口にしようともしない。 姉は人の目など気にしない。あたしは人の目ばかりを気にしていきている。いつだって人の顔色をうかがいながら生きている、酷く面倒な生き方だ。勿体ない人生を歩んでいる自覚もあった。 もっと喜怒哀楽があれば、もっと可愛く笑えれば、雅治はもっと好きになってくれるのだろうか。姉のように自分の欲求に素直な人間になれば雅治はあたしをもっと好きになってくれるんだろうか。 「ごめん。お姉ちゃんこんなに早く帰ってくると思わなくて」 「ええよ。の部屋で茶でも飲むぜよ」 「え?あ、うん」 そうは言うものの、仁王の視線の先にあったのは美人で、自由で、大人な姉の姿だった。その瞳に映っていたのはあたしではなかった。部屋に行ってからやっぱりお茶をすする暇もなくあたし達は濃厚なキスに溺れた。 仁王の唇から煙草の味がしない、最後のキスだった。あの時のキスをあたしは忘れられない。 それから数カ月もするとあたし達も無事大学生になった。付属というほど楽でいいものはないと思う。受験なんて面倒なことをしなくても仁王と同じ学校にいれるのであればあたしに文句はなかった。 最近はよく仁王の家でデートをした。仁王の匂いが漂うベッドで以前と何も変わらないセックスだってした。ただ場所が仁王の部屋に変わったというわけであたし達に大した変わりはなかった。 「ねえそれって美味しいの?」 あたしは仁王に聞く。彼が燻らせている煙草を見ながら。あたしには理解できない。何故それが美味しいのか、そして何故彼がそれを吸う必要があるのか。 「お前さんにはちょっと大人すぎる味じゃ」 あたしは鞄の中から今日初めて買った仁王と同じセブンスターの12ミリを取りだした。コンビニでソフトとボックスという聞きなれない単語に戸惑いながらもあたしは見覚えのあるセブンスターの箱を頼りにコンビニでその煙草を買ってしまった。 仁王のライターを借りてあたしは生まれて初めての煙草を燻らせる。時折咳き込みながら、大人ぶりながら。 「には煙草なんて似合わんぜよ」 「だって雅治も吸うでしょ。文句を言うのは間違ってるよ」 「文句じゃないぜよ。忠告じゃ」 「・・・・・・・・・そう。それはどうもありがとう」 仁王は慣れた手つきで灰を灰皿に落としていく。あたしは不慣れな手つきで灰を落としていく。そしてあたしは結局煙に耐えられずにそのまま煙草を押しつけて消してしまった。 「これ美味しくないね」 「・・・・・・やったら吸わなければええじゃろ。勿体ないのう」 仁王はあたしの煙草の味を確認するように唇を合わせてくる。いつもは酷く感じている仁王の煙草の味が、自分も同じものを吸う事でほとんど感じられなくなっていた。 あたしはただ仁王に近づきたいだけだった。大学に入って彼は変わってしまった。きっとあたしにしか分からない程の非常に些細なところではあったけれど彼は確実に変わってしまったのだ。あたしには悲しい事にその変化が分かってしまった。 あたしは仁王の唇を遠ざけるように一度押しのけた。 「もういい。もういいんだよ雅治」 それでも彼はあたしを手元に手繰り寄せて包み込んだ。フィルターぎりぎりにまで火がついている煙草がジジっと音をならして終焉を告げた。仁王はあたしを一度手放してその煙草の処理をした。 本当は手放してほしくなかった。自分で拒絶しておきながらも本当は彼の手が自分に戻ってくる事をあたしは望んでしまった。欲のないあたしが唯一望んだ、数少ない願い。例え煙草の不始末で火事になってあたし一人だけが死んでしまってもそれでもよかったのだ。離さないで、欲しかったのに。 仁王の部屋に置いてあったもう一つの灰皿にフィルターの白い煙草を見た。見覚えのある銘柄と見慣れたグロスの色があたしの中に何かを連想させた。 煙草を吸う事でまた仁王の心を引き寄せる事が出来るんじゃないかと思った。でもそれは間違いだった。追いつけなかった。何をしてももう彼の心を自分に繋ぎとめておく事は出来ないと悟った。 「だってお姉ちゃんには勝てないって分かったから。もう煙草を吸う必要はないでしょ」 仁王の胸の中にいたあたしは一瞬彼がびくりと震えたのを感じ取っていた。本当はこんな事を言わないで気づいて欲しかった。自分から行動に移す事のない、無欲なあたしが煙草を突然買って吸い始めた時点で気づいて欲しかった。何かがおかしいと。 後悔した。どうして彼に自分の姉を紹介してしまったのだろうかと。悔やんでも悔やみきれない事実に、煙草の煙だけがそんなあたしを見守るように悲しく灰皿から舞っていた。 |